七章[七章]退院をしてから又、何の変哲もない日常が始まった。 しかし、昇の心境は複雑である。 俺は本当に祇園祭には行かなかったのだろうか。 茂子はどうしただろうか。 あのお香の店は本当にあるのだろうか。 茂子は本当に鼻血を出したのだろうか。 いやに鮮明に「石黒香舗」という木の看板が目に浮かぶ。 茂子が着ていた藍染の絞りのゆかたのもようが蘇る。 それにも増して店員が教えてくれた 「お香はかぐと言わずにきくと申します」という言葉が頭の中でこだまする。 あんな事は今迄耳にした事がない。 いや、耳にした事がないと思っているだけで記憶にない所で聞いた事があるのかも知れない。 しかし、あのお香の店がやけに気にかかる。 体の具合が良くなったら京都へ行って三条通りへ出て探してみよう、と思った。 しかし、本当にあったらどうしょう、どのように説明すればいいのだろう、と真剣に考えた。 黙りこくって、いつも宙を睨んで考え込んでいる昇のようすに直美は心配そうな顔で 「お父さん、どうしたの。 頭が痛むの」と尋ねた。 昇は「いや、何でもない」と答えたが、 現実に引き戻してくれる直美がいて良かった、と思った。 直美は「おとうさん、事故に遭ってからいやに優しくなったのね。私を置いて逝かないでね」と冗談とも本音ともつかぬ口調で言う。 「ああ、大丈夫だ。 俺は長生きしそうだ」と言った時、茂子の「あなたは私の分まで長生きしてね」と言ったのを思い出していた。 お盆が過ぎて朝夕が少し涼しさを感じさせる頃、一人の女性が訪ねて来た。 昼過ぎの暑い中を大きめの紙袋を下げてやって来た。 「中村由美です。 吉村茂子の妹の・・・」と名乗った。 直美は急いで奥へ昇を呼びに行った。 昇は驚いて玄関へ出た。 茂子の事は直美も知っていた。 座敷へ通った由美に「懐かしいねえ、由美ちゃん。 お姉さんは元気」と昇は訊いたが 由美は泣き顔になり「先日、満中陰を済ませました」と言った。 昇は「満中陰」と訊き返した。 「はい、姉の茂子は7月15日の真夜中に旅立ちました」と由美は答えた。 昇は耳を疑った。 返事をしない昇に由美は「姉は亡くなりました」と言った。 昇と直美は「えっ」と驚きの声を上げて顔を見合わせた。 由美も黙って二人の顔を見る。 直美は席を外した。 昇は「で、どうして、そんなに早く」と狼狽して聞いた。 由美は「急性骨髄性の白血病でした」と答えた。 昇は絶句した。 由美は「姉さんから、常日頃、もし私が死んだらこれを昇さんに届けてね。 中にはお父さんの手紙も入っているの、と言ってこの風呂敷包みを見せていたのです。 私の夫は静かに暮らしている人の所へ余計な物を持って行くのじゃない、と言いましたが 半年の結婚生活だけで彼氏も恋人も作らなかった姉さんが不憫で・・・。 それに父の人生も知って頂きたくて、ずうずうしくお伺い致しました。 あらかじめお電話すると断られそうで、こうして突然伺いました。どうぞお許し下さい」 そう言って由美は頭を下げた。 昇は「そんなに急に悪くなられたのですか」と尋ねた。 「いいえ、前から・・・。 発病したのは10数年ほど前ですが、一旦は良くなったのです。 ですが油断したのか、年齢的に体調の変わり目と重なったのか、今年の6月26日におびただしい鼻血を出してそれが止まらず、 救急車で病院へ運ばれました。2時間も鼻血が止まらないのを出るに任せていたのです。 お医者様は20分以上止まらなかったらすぐ病院へ来るようにと仰っていたのに・・・、 どうしてあんな事をしたのか・・・」 そう言って由美は目頭を押さえた。 昇は声が出なかった。 由美は続けた。 「入院した時はまだまだ元気だったのですが、目に見えて衰えて行きました。 時々、昇さん、そこにいるの昇さんでしょ、なんて言ってドアの方を見るのでお医者様は 会えるのなら会わせて上げて下さい、と言われましたが姉さんは、いいの、 会う事になっているからいいの、と訳の判らない事言って・・・。 由美ちゃん、連絡はしなくていいのよ。 生きている内は知らせないでね。と言いました」 昇はつい「僕、シ-ちゃんに会いましたよ」と言った。 「いつの事ですか」と由美は驚いた顔で尋ねた。 「7月2日の夜の事です」と昇は答えた。 由美は「その日は蒸し暑い夜でしたね。 その日から姉は熱が出始めました。 初めは上がったり下がったりしていたのですが、七夕の日から下がらなくなりました。 体温計が一番上まで上がったまま下がらなくなりました。 氷嚢もすぐお湯のようになりました。 その頃からうわ言が多くなりまして、あなたの名前を呼び続けておりました。 母は姉がかわいそうに思い、あなたに連絡をすると言いましたが私は姉の言葉を伝えました。 母は泣きました。 父は黙っていました。 そして亡くなる日の朝から苦しそうな表情が消えて何となく楽しそうな、嬉しそうな表情が見え始め父は誰かお迎えが来ているんだな、って言って 母を連れて家に帰りお仏壇にお祈りをしました。 父は初めて泣きました。 私は病院で姉のそばにいて、シ-ちゃん、しげちゃん、お姉ちゃん、と呼び続けましたが、かすかに、はぁいと返事をする だけでした。 その内、タコヤキが食べたいだの、綿菓子が欲しいのに、だの、いちごの氷だの言い出して私を驚かせたのです。 私はその度に、はいはい、目を覚ましたら買って来て上げるから早く目を覚ますのよ、って言いましたがその合間にすごいわ、と つぶやいてみたり、誰かをせかせているように、早く早くと言ってみたり、亡くなる半日は私をとても愉快にさせてくれました」 そう言ってハンカチで目頭を押さえた。 昇は「それは7月15日の事ですか」と尋ねた。 「そうです。 その日の昼下がりから、たったそれだけの事でしたがその日の午前から表情が変わったのです。 夕飯時になって両親が私のお弁当を持って来てくれましたが、姉さんのうわ言を聞いて、 子供の頃の事でも夢見ているのかしらと言いました。 父は茂子は綿菓子が好きで母さんに良く買って貰っていたなぁ、としみじみ言いました。 ところが10時頃から何も言わなくなり、お医者様は気持ちを静かにお持ち下さい、と言いました。 姉は小さく手を振って、ありがとう、さようなら、って言ったかなと思ったらフウ-ッと大きな溜息をついて逝ってしまったのです。 午後12時前でした。 間際にあんな楽しそうな顔をするなんて、姉さんにはきっと楽しい思い出があったのですねぇ」 由美はそう言って泣き顔で昇の顔を見た。 昇は自分の記憶と妙に一致する話に寒気を覚えた。 そして由美は紙袋からタトウ紙に包まれた着物と丁寧に包まれた薄くて小さな包みを出した。 昇は「それ、ひょっとしてゆかたですか」と尋ねた。 由美は「はい、そうです。姉さんは独身の頃、なけなしのお小遣いをはたいて作りました。 これを着て昇さんに祇園祭に連れて行って貰うのと言って嬉しそうに私に見せてくれました。 それなのにその前に話がダメになってしまって。姉さんはこれを実家に置いたまま嫁に行きました。 何も知らない母は持って行けばと言ったのですが姉さんは、じみだから着られるようになったら取りに来るわ。 それ迄預かっておいてね、と言いました。袖を通したのは3年前の町内の盆踊りの時です。 私が写真を撮っておいたら、と言って近くの写真館で撮りました。それがお葬式の写真になるなんて」と 言って由美は又目頭を押さえた。 昇は「それって藍染の絞りのゆかたじゃありませんか」と尋ねると 「昇さん、ご存知だったのですか」と尋ねた。 昇は口ごもって「はあ、いや、ちょっと」と濁した。 「見てもいいですか」と言うと「どうぞ見てやって下さい。これを着て昇さんと祇園祭に行くのを楽しみに していたのですもの」と言いながら由美はタトウ紙を昇の方に差し出した。 昇は紐を解くのももどかしく開けた。 そして急いで浴衣を広げて右袖のたもとを見たが何のシミも影もなかった。 しかし、模様には見覚えがあった。 昇の手は震えている。 その間も由美は話した。 「姉さんは発病する少し前から夏なのに寒くて仕方がない、と言いました。 どんな風に寒いの、と訊いたら、背骨の芯に氷でも詰め込んだように骨が冷たい、 と言いました。 そんなバカなと思いましたが、そんな感じがあったのですねえ。 姉さんは心が寒いから体まで寒いのかしら、と言いました」 昇はそれを聞いて「そうですね、心が寒いと体も寒く感じますね」と答えた。 由美はもう一つの薄くて小さな包みを差し出して「これは父が昔、姉さんに宛てた手紙です。 父の事も判って上げて下さい」と言った。 昇は黙って受け取った。 「姉は何を楽しみに生きているのかしらと思うくらい出掛けませんでした。 少しは出掛けたら、と言ったのですが人込みへ行くと菌を貰ってくるようで次の日は体がけだるくて熱っぽいから 嫌なの、と言っていました」 昇は胸が締めつけられるようだった。 「所で茂子さんはどちらに住まわれていましたか」と尋ねると由美は住所を言った。 東大阪の生駒山のふもとの住所だった。 「駅から歩いて10分程の所で便利な所です。マンションも私達と同じマンションで私の子供達もなついてました。 両親は空気が悪いから奈良へ帰っておいでと言いましたが姉は東京よりマシよ、と言って私の近くへ越して来ました」と言った。 「由美ちゃん、よく来てくれたね。 僕も気にしていたんだ」と言う昇に由美はほほえんだ。 [八章へ] |